お侍様 小劇場
(お侍 番外編 20)

     “どうせ数えるなら 倖いを” 〜馴れ初め編

 

 

        



 奇しくも勘兵衛と七郎次がそうであったのと同じように、出会ったときは大学生と小学生、十も年の離れた久蔵を。なのに“久蔵殿”と、その初対面の頃から丁寧な呼称で呼んでいた七郎次であり、

 『木曽の御大のところにな、隼人殿の忘れ形見がおるのだが。』
 『隼人様…木曽様の次代様ですよね。』

 男系支家の筆頭、木曽の島田の次期後継者は、だが、表向きには事故で他界し、一人息子がそちらへ引き取られて、もうどのくらいとなるものか。まだまだ学齢の幼い子供で、なればこそ一族へのお目見え披露もまだだった筈。
『久蔵といってな。無駄口を叩かずの至って無口で無表情な、まるで路傍の地蔵のような童だが。これがまた刀を振るえば途轍もない練達で、先が怖いやら楽しみなやら。』
 少々面白がっているような言いようをなさった御主、勘兵衛様ではあったれど、細められた目許の和みようは ただただお優しく。あんまり誰ぞへ関心を持たれることの少なき彼が、これほどまで気にかけておいでのその和子に、七郎次もまた一目なりとも逢いたくなって来てのそれで、
『…はい。久蔵様へ、ご挨拶に伺わせていただきます。』
 東京での最初の連休の過ごしよう、とっとと決められてしまった その折に、七郎次がそうと口にしたのが まずはの最初。勿論のこと、
『まだ子供ぞ、様づけは大仰だ。』
 勘兵衛としては、またそのような…と度が過ぎる謙遜ぶりを窘めたのだが、
『ですが、支家の跡取り様です。』
『お主も支家の人間ではないか。対等だ。』
『いいえ。』
 今の自分はただの養子だと、こういうところが古風で頑固な七郎次だったため、どれほど言ってもなかなか譲ろうとはしなくって。う〜むと眉を寄せた勘兵衛様、ここは一つ 切り込む方向を変えてみた。
『そうは言うが、向こうも修身もどきの礼儀作法を叩き込まれておる身だ。世話係からならいざ知らず、初対面の年長からの様づけ、面食らうと思うぞ?』
 そうと諭されたお言いようへ、それは確かにとやっと納得したらしく、
『それでは、久蔵殿と。』
 何とか妥協した末のこと、だったそうで。

  「久蔵殿。」

 自分よりもずんと小さな小学生を相手に“殿”をつけて呼ぶその割に、態度はそうそう畏まることもなく。それどころか、
「あ、ちょっと動かないでいて下さいまし。」
 糸屑がついていただの髪が乱れていただのといっては、きれいなその白い手を伸ばされて、お世話をされる、手を掛けなさる、よくよく気のつく優しいお人。とっても礼儀正しいのに、するりとこちらの間合いの深いところへまで、いつの間にやら入り込んでしまわれもするという、不思議な距離感を自在に出来る彼であり。
「…。//////////
 ちょっぴり背伸びが始まる年頃で、それでなくとも“何でも一通りこなせる、手のかからぬ坊っちゃん”で通っている久蔵の、されど…まだちょっとは甘えたい気配をさりげなくも読み取ると、自分の方から構いたいからだと装って、ただただ傍らに居てくれる。
「? どしました?」
 ただ見ただけでなく見つめていると察すると、おやや?と剽げたように目を見張り、それから…ふわりと微笑ってくれる。慌てなくてもいいんですよと。大人から呼ばれたのでと“ちょっと待って”なんて制しての、後回しになんてしませんからと。真っ直ぐ向かい合ってくれる、対等に扱ってくれる。だから、子供扱いという種の構いつけをされても居心地がいい、素直に受け取れるのだと判ったのはずんと後になってから。だってやっぱり、物事には順序というものがあって。

 「…あの、な?」
 「はい。」

 こんなことをわざわざ訊いて笑われないかしら。やっぱり子供だなって、どうでもいいことでしょうって、馬鹿にされやしないかしら。そうと思うと、やっぱりちょっぴり恥ずかしかったけれど。着いて早々の槍のお稽古でかいた汗をお風呂で流しての、少しほど早い夕涼み。大きな作りの母屋の奥向き、緑の茂みがあちこちにうずくまってる、手入れの良いお庭を見渡せる、客間の縁側に並んで腰掛けていてのお喋りの中。おずおずと話の穂口をこちらから差し向ければ。促すようにやんわりと細められた青玻璃の瞳は、やはり限りなく優しいから。そのやわらかさに絆
(ほだ)されて、勇気を奮って聞いたのが、

  ―― 何て呼べば…? ///////

 名前は聞いてる、でもねあのね? お兄さんのこと、何て呼んだらいいの?
「〜〜〜。」
 無口ではあるが物怖じはしない。そんな久蔵にしては随分と妙なこと。気後れしてだか、お口の中でもしょもしょ歯切れ悪く何か言うなんて、珍しいことがあったことよと。お客人からの御用があったらすぐさま聞けるよう、久蔵の傍づきの乳母が、二人からは少し離れた濡れ縁の片隅に座し、乾いて取り込んだ洗濯物を畳む傍らにという素振りで見守っておれば、

 「そうですねぇ。」

 こちらへは横顔を向けていなさるお客人。おいでになった時に着てらした、襟元も型も少し堅い雰囲気だったシャツから、今はゆったりとした木綿の普段着風のシャツに着替えてらして。ひとかたならぬ武芸を修めていらっしゃり、どうかすればかっちりと出来上がった体つきをなさっているのに。着痩せして見える性なのか、見た目にもはんなりと優しい雰囲気ばかりがするお人。さらさらで真っ直ぐな金の髪に縁取られた細おもて、するんとしていて端正なお顔といい。堅苦しくも正座をするでなく、縁側の縁からその長い御々脚を降ろしての椅子のように腰掛けて、気安い雰囲気を醸している様子といい。いかにも取っつきやすくしておいでの七郎次様。だっていうのに、どうしてだろか。小さいけれどいつも凛々しいまでに毅然としておいでの久蔵坊ちゃまが、妙におどおどしてなさり。

 「何て呼んで下さいますか?」
 「七郎次、さん?」
 「う〜ん、それはちょっと堅いですかね。」

 いっそ呼び捨てでいいんですよと、どうでもいいのではなくの“そうしてくださいな”と言い出された彼だったのだが。それはそれで何かしらご不満か、坊やはう〜んと考え込んでしまわれて。

 「しちろーじ、しち…シチ。シチ?」

 いきなり決めた訳ではなくの、シチと呼んではいけないか?って、まずは訊いてる坊っちゃまだと。お傍づきの乳母には省略された部分も判ったが、それと同時に、そんな呼びようはさすがに…いくらこうまで懐ろ開いておいでの彼だとて、初見の大人相手には失礼かもしれないと。今度は大人であるお客様のお心持ちへも気が回った乳母殿、
「坊ちゃま、それは…。」
 差し出がましいようですが、それだと不躾が過ぎませぬかと。言上しかけたそれより先に、

 「構いませんよ? 何だか懐かしいですし。」

 面食らったり不快になるどころか、そちらからそうと言って下さっての、くすすと嫋やかに微笑った七郎次だったりし。

  ―― なつかしー?
      はい、大奥様がそう呼んで下さってました。

 亡くなられてしまって久しい、懐かしい人。優しくて暖かで、七郎次の親としてはやや年齢が上だったけれど、そんなことが気にならぬほど、たいそう無邪気な方でもあって。

 『おシチちゃんvv』
 『母上、それはちょっと。』
 『あら何よ。』

 だって、シチロージというのは確かに響きも良い素敵なお名前だけれど、男の子みたいな呼び方なんですもの。いや、その子は男の子なんですて。そのくらい知ってます…なんて。漫才みたいなやり取りをし、会話の只中にいた七郎次を思わず吹き出させたほどの、屈託ないお人であり、

 「おーおくさま?」
 「はい。勘兵衛様のお母様で、
  勿体なくも私のことまで手元へ引き取って可愛がって下さった、
  それは優しいお方でした。」

 だから構いませんと、そう答えた七郎次だったのへ。だってのに、

 「…。」

 こちらもやはり、上等の玻璃玉みたいな真っ赤な瞳をやや見開いて。じぃっとお兄さんのお顔を見上げる坊や。不意に途切れた会話といい、表情の乏しいお顔になってしまわれたことといい、慣れのない人には何が起きたやらとんと判らなかった変わりようでもあったろに、

 「…ええ。私は本当の、生んでくれた母のことはあまり覚えていないのですよ。」

 そんな身であること、察してくれた聡明な坊や。呆然とした訳でもないが、一言も発さないという、何とも判じが難しい様子になった久蔵だったのは。七郎次のそんな哀しい遍歴にいち早く気づいて案じて下さったからだと。やはり酌み取ってしまえてのそれで、ありがとうございますねと小さく微笑って見せるお兄さんの、

 「………シチ。」
 「はい。」

 呼べば必ず柔らかい笑顔をくれる、呪文みたいなやさしいお名前。自分からは短く呼んでよくなったけれど、それでも…どれほど大切な名前になったことだろか。これからの彼が、もしかせずとも一番たくさん呼ぶこととなる、そんな名前を咬みしめた、その最初がこの会話でありました。





        ◇



 平日だろうと祭日だろうと関係なく。いつもは独りで、ただただぼんやりと。気持ちを静める“止水”の鍛練の延長でもあるかのように、無為のままに過ごすばかりな日々だったものが。今年の連休は何だか楽しくって仕方がない。だって、とっても素敵なお友達がいる。槍を振るわせればどれほど強いかを知っているのに、すんなりした首条へと添わすようにと降ろされた金の髪とか、周囲の滴るような緑に冴え映える白い肌。山野辺に咲く白百合のように、清楚で凛とした風貌をしつつ、されど優しい物腰がそれは自然で暖かで。若木のように伸びやかな肢体は、都会の人なのに そりゃあ機能的によく動き、久蔵が案内する、山の中やら林の中を、恐れもないままひょいひょいとついて来れてるその上に、

 「ああ、ほら。そのまま飛んでいらっしゃい。」

 彼が先に飛び降りた、少し高みの切り通し。大人の背丈ほどもの高さがあるって訳ではなかったが、それでもまだ小学生で、随分と小柄な久蔵には十分にその身長と変わらないくらい。
「…。」
 平気だと、だからそこをどいてと言いたげに、見下ろして来た彼だったが、そこは引かないお兄さん。ほらと広げられた双腕やその先の胸板の方が、坊やにしてみりゃ危なっかしかったのにね。頑として引かないものだから、ままよとそれでも淵よりに飛び降りたところが、
「ほ〜ら、捕まえた♪」
「…っ。//////
 その懐ろへ掻い込んで、ぎゅうと抱きしめてくれまでした人は初めてだった。柔らかな温み、いい匂い、伸びやかな甘い声。五感全部が“好き”と騒いでやまない。



 それは楽しい連休は、気のせいか去年までのそれよりも 毎日があっと言う間に過ぎてゆくようで。それで…だったのかもしれない。

 「…?」

 そろそろお昼だ、帰りましょうと。もうすっかりと当たり前になってる手をつなぎ、屋敷へ連なる未舗装の小道を、とことこ・たかたか並んでゆけば。あとちょっとで裏の通用門までとなった辺りで、屋敷を囲む塀の内側、何やら沸いているよな気配が伝わって来た。あれれぇ? 誰かお客様でも来やったか? そんなお話、誰からも聞いてないけれどと。お顔を見合わせた二人が、それでも歩調は緩まぬままに、遊びに出るのにいつも使ってる、小さな木戸の通用門からひょこりと中へ入ってゆけば、七郎次が来た折にもお迎えにと出ていたあの黒塗りの大型車がガレージから引き出されており。その傍らに立っていた男へと、久蔵も七郎次もどこか唖然として立ち尽くしてしまう。だって余りにも思いがけない人物であり、久蔵には特に…心を絞り上げるよな、不安を運んできた存在。つないでいたそのまま、きゅうと握ってしまった白い手の主が、だが、それでハッと我に返ってしまい。家人らと語らっていたその人へ、確かめるよな声をかけていた。


  「…勘兵衛様?」







 予定よりも早く仕事が片付いたのでと、知らせるのももどかしく、本人がそのまま来てしまったという、相変わらずの行動派。やはりまずはとお館様へのご挨拶に向かった勘兵衛であり、久蔵や七郎次は昼食をお食べなさいと居室の方へ引き離されて。食休みにと過ごしてのそれから、久蔵は刀の稽古の時間となってしまい。昨日まではそれを七郎次も見に来てくれたのだけれど、丁度そこへと…客間へまでやって来た勘兵衛だったのとかち合って。

 『どうだ、久蔵。少しは腕も上がったか。』

 初見の折の物騒な衝突を、思い出しでもしたものか。顔を合わしたばかりのすぐにも、そんな言われようをしたのへと。
『…。』
 だとすれば、まんまと引っ張り回されたことまで思い出したか。カチンと来たよなお顔になってのそのまま、怒ったような所作にて立ち上がり、すたすた出てってしまった久蔵だったものだから。それを追うには微妙に間が合わず、七郎次の方は部屋へ居残る格好となってしまった。
「…。」
 遠ざかる気配を見送ってから、さて、とでも言いたげにこっちを向いた彼だったので。もしやしてそうなるようにと、故意に久蔵を煽った勘兵衛だったのかも知れず。相変わらずにこのお人は底が知れぬと、ついの苦笑がこぼれた七郎次だったものの、

 「勘兵衛様。」
 「何だ?」

 四角く座ったまんまな七郎次からの声掛けへ、牽制代わりか、それとも何がしかの抵抗か。少々粗雑な素振りにて、青々とした畳の上へどさりと座り、窮屈だったとの息継ぎをするかのようにまずはとネクタイを緩めながら、おおらかにもぞんざいに応じて下さる御主の、少々重たげな蓬髪を眺めやりつつ、

 「どうして私だけをこちらへ?」

 こうしてお運びになられたからには、鬼門だからだの面倒だっただのという言い訳も通じない。連休中もお仕事が忙しかったのは事実だろうが、そもそも一緒にいたくてと本家から呼んだ彼をなのに一人遠いところへ向かわせるからには、それなりの理由があったはず、と。

 “…自惚れてはいけないのでしょうけれど。”

 それでも…平仄が合わぬと問い詰める彼だったのへ、
「何だお主、ここにいる間、ずっとそんなことを考えておったのか?」
 ちょっぴり的外れなことを、けろりと一言、返される御主であり。
「いえ…あの。///////
 お顔を見るまでは忘れておりましたと、恥ずかしそうに小さなお声で付け足したのへ、予測があったか“さもありなん”と苦笑を返した勘兵衛が言うには、

 「気を遣う相手がおっては、たとえ休日祭日であれ息もつけまい。」
 「う…。////////

 やっぱり けろりと言われてしまい。ああこれだからと、含羞みにほころびかかって困っているお顔の陰で、だのに臍
(ほぞ)を咬んでもいる七郎次だったりし。やや強引に閨房へ押し倒された、あの初めての晩だってそうだった。好きになってはいけない人を完全に思い切るため、無理強いされた悲しみを抱くことで、いっそ嫌いになれたらいいとさえ思ってた。なのに、好きだという気持ちは少しも薄まらず。今だって、小首を傾げて“んん?”と、いかがしたかと問うて下さる眼差しを寄越されるだけで、胸が躍っての息が上がりそうになるほどもの惹かれよう。そんなこちらの気も知らないで、

 「あれへは随分と構いつけておるらしいの。」

 直前まで当然のようにぴったりと傍らにいた久蔵を差してだろう、一日中を裏山で遊んで過ごし、風呂も一緒なら昨夜は懐ろに入れての供寝までしたそうだのと。ほのかにからかうような響きもて、軽い口調にて訊かれた御主へと。
「…。」
 七郎次は…だが、我に返ったように真顔になってから、小さく小さく、微妙な微笑い方をして見せた。

 『子供ながらに剣の達人で、木曽の御大の自慢のタネでの。』

 勘兵衛はそんな風に切り出したが、逢ってみて真っ先に気づいたのは別なこと。それ以外には関心がない、というような。ある意味で単純な中身の和子なんかではなさそうだと、僭越ながらも気づいてしまったものだから。
「いかがした?」
「いえ…。」
 言葉を濁すは、何でもなくはないということだろうよと。話の先をと促す勘兵衛へ、

 「久蔵殿は…無理をしているとは申しませぬが、それでも。
  言いたいことを随分と飲み込んでおいでなんじゃなかろうかと思いまして。」

 強くなりたいと日々頑張っている前向きな和子。毅然としていることへ嘘や虚勢はないけれど、それでも…時々は誰かに傍にいてほしいときだってあるものを。そんな繊細微妙なこと、上手に言える術を知らない子。
「内に秘められたところはずんと聡明なお人なだけに、余計に歯痒いだろうなと思えてなりませんで。」
 甘えん坊じゃあないけれど、でもねあのねと。優しさに触れると心地いいのは他の子と一緒ということ。上手に言葉で紡げないし、そんな煮え切らぬ態度は自分も苦手と来ては…伝えようがなくて。手っ取り早く言うならば、それもまたただの“不器用”なのかもしれないが、それこそ何も言わずとも察してくれよう存在である“親御”が早くに不在となった身では、そこのところが未発達なまま十を越した年齢となってしまったの、已を得ずとはいえ何とも気の毒なこととしか言いようがなくて。

 「気の毒、というのとも違いますね。それは私が勝手に感じたことだし。」
 「おいおい。」

 淋しそうに微笑った七郎次へこそ、勘兵衛が呆れての苦笑を向けた。同情するなんて僭越なことと断じた彼だが、この場合はそんなことにはあたらぬだろと、それこそ窘めたかったからで。とはいえ、そういう繊細なこと、実は勘兵衛にもあまり得意な分野ではなく。感覚や感情の機微というもの、察しは出来ても言ってやる言葉はなかなかに難しい。そう、感受性が豊かであればあるほどに、こんな言い方じゃあ足りないとか、微妙にそうじゃないのにとか、先に気づいて歯痒くなって。そんな憤懣の感触を身の裡
(うち)に抱いてか、どこか悔しそうに押し黙った彼へ。久蔵殿と似てなさるなと、そうと気づいての擽ったくも感じつつ、七郎次が続けたのが、

 「私は、大旦那様や大奥様、勘兵衛様からも、
  心細くないようにって…心置きなく甘えていいんだよって、
  いつだって抱きしめていただいてました。」

 シャイな日本人には今でもまだ、ともすれば大仰すぎる愛情表現だけれども。
「無条件の当然ごととして、最優先して愛してくれる“親”という存在を、知らない、持たない者にとって、それがどれほど嬉しいことだったか判りますか?」
 大人たちの勝手な都合でそうなったのであって、悪いのは大人の側だなんてことも、当事者である子供には誰も語ってやるはずはなく、それこそ幼すぎて理解も何も届かないこと。味方のいない世界に放り出されて、それが当たり前だった、それが始まりだった私が、こんなに幸せで良いのだろうかと。それこそ毎日泣いてたくらいに嬉しかった優しさや倖いをくれた、そりゃあ温かで安心できた優しい触れ合いを、

 「つい、思い出してしまったんですよね。」

 僭越もはなはだしいですけれど、と。相変わらずの言いようを付け足した七郎次は、けれど。何にか堅い礎を固めた、しっかと揺るがぬ眼差しをしてもおり。それこそ…やわな同情なんかじゃなくの本心から。その腕の尋が許す限りの力と強さで、あの小さな和子を包んでやりたい支えてやりたいと、心からの想いとして感じたらしくって。

 “………妬けることよの。”

 勘兵衛からの支えがあってこそ、どうどうと自信をつけてのようやっと、自分からも誰かへそんな気持ちを抱けるようにまでなった七郎次なのだというに。彼の側からの、それもこうまで強い思い入れ。そんな素晴らしくも希有なものを向けられている幼子へ、ちょっぴり悋気が沸きそうになった、大人げない御主だったりするのである。






        ◇



 その筋では知る人ぞ知る“島田”という一大家督の本家宗家の当主、言わば総帥がまかりこしたとあって。先触れなしの気まぐれな訪のい、大層なことを構えんでもよいと言って憚らぬ、このお屋敷のお館様を尻目に、家人らは“さあ大変だ”と晩餐の支度におおわらわ。それでなくともこちらへは久しい来訪ゆえに、近隣に住まう親類縁者が“久し振りよの”とお顔を見に、次々訪れての急ににぎやかさも増してしまい、

 「私たちは蚊帳の外ですね。」

 そろそろ夕暮れを迎える趣きの庭先で、今が盛りのツツジを愛でつつ七郎次が苦笑をし、後に続いていた久蔵を振り返る。ご挨拶やら支度のお手伝いをするにしても、此処なりの要領が分からずに邪魔になるばかりでしょうからと。用意とやらが落ち着くまで、一緒に居て下さいませと誘われて、四季折々に花が楽しめるのだろう、沈丁花からツツジに紫陽花、様々な茂みが配された庭へと出ていた二人だったのだけれど。

 「…もう帰るのか?」

 迎えが来ては逆らえまいにと、判っているけどそれでも訊いた久蔵へ。七郎次はわずかほど視線を落としてから、ええと小さく頷いて見せ、
「勘兵衛様はお忙しい方なのです。」
 なのに迎えに来て下さったなんて。ただお呼びになればそれで済むことだのに、そうは なさらなんだなんて驚いたと。なるほど戸惑いを含んだお顔で、柔らかく微笑った七郎次へ、
「…。」
 久蔵の表情は何とも動かない。年端のゆかぬ子供が不貞腐れての延長として、責めたいのではなく、拗ねているわけでもなく。ただ、とある事実を噛みしめていただけ。

 “…シチが大事だからだ。”

 勘兵衛が迎えに来たのはこの青年と少しでも早く会いたかったから。それと…久蔵が駄々を捏ねたりして辛い別れになりはしないか、こんなに優しい気性の彼を、なのにやっぱり自分の都合が大事な“身勝手な大人”と一緒だなんて久蔵に思わせたくはなくて。そう思った久蔵なのだと七郎次を傷つけたくはなくて。だから、強引にも連れ戻しに来た自分こそが悪者になってでもと構えてのこと、わざわざ迎えに来た勘兵衛なのではなかろうか。そして、

 「ごめんなさいね。」

 こっちの彼もまた、痛々しい眼差しになって謝辞を述べて下さるのは。自分が悪いのだと…わざとらしいまでの我儘な振る舞いを御主である勘兵衛にさせたこと、薄々気づいているからこそ。そんな御方ではないのですよとの弁明をしているのだと偲ばれて。いたわったり謝ったり、非を自分へと集めるような、そんな物言いの多い彼だというのは判ってたし。そんなところも優しい人だと、無責任に“ごめんね”ばかり並べている訳じゃあないと、それこそ重々判っているけど。

 「…い。」
 「?」
 「シチも島田もずるい。」

 うつむいたままのお顔、でもお声の震えから、嗚咽をこらえていることが判る。心ゆくまで子供扱いしてくれたのに、もう帰ってしまうお兄さん。ずっとずっとは無理なことだのに、中途半端に甘やかしてのそのまま、勝手にその手を振り払うようにして帰ってしまうなんてと、それで怒っているものと思っておれば、
「ごめんなさい。」
「ちがうっ。」
 重ねて謝る七郎次へ、ぶんとかぶりを振ってからそのお顔を上げて見せ、

 「これでは俺が、俺だけが、可哀想な子供みたいじゃないかっ。」

 はっきりと言い切った久蔵には、
「…あ。」
 七郎次が虚を突かれてハッとする。
「俺っ、シチが困るんなら我慢出来るもん。駄々なんか捏ねたりしないもん。」
「久蔵殿。」
「ずっと一緒がいいけど、でも。シチが困って辛いのは嫌だ。」
 懸命に言いつのる小さな少年へ、七郎次は逆に…胸を衝かれて言葉を失った。ああ、ああ、ごめんなさい。その繊細な内面も察していたくせに、結句、単純な子供みたいに把握していたこと、選りにも選って本人から気づかされてのハッとする。
「東京へ帰ってしまうのも、我慢出来る。また会えるんならそれでいいっ。」
 この子には珍しいこと。踏ん張るように立ち尽くし、双の拳をぎゅうと握りしめ、

  「お母さんにはもう逢えないけど…シチとはまた…。」
  「…っ。」

 そんなことをまで言うて下さる愛しい子。それこそ、強くなるには不要な弱さだろうと、彼なりに…子供なりに思ってのこと。これまでのずっと、喉奥へ押し込んででもいたのだろう壮絶な想いまで引っ張り出して。自分は平気だと言いたいがため、語彙の乏しい中から そこまで言うて下さろうとは。

 「ええ…ええ、勿論ですよ。いつでも何度でも逢えますとも。」

 なんて迂闊で愚かな自分だろうか。傷つけたくはないなんて偉そうなこと思うにはまだまだ至らぬ人性を思い知らされ、そして。それに引き換え、何と聡明で廉直で、真っ直ぐな和子であろうかと、久蔵の強さを思い知らされた七郎次であり。
「こちら様さえよろしいなら、夏休みにも冬休みにも参ります。」
 伸ばされた温かな手が、強ばったままな頬を撫でてくれる。馬鹿にするなと烈火の如く怒っている久蔵から、言わば噛みつかれているのに それでも臆さない人。
「…。」
 見上げれば、それだけで。こちらの意を酌み、やさしく抱きしめてくれる人。膝を突いてまでしてこちらを懐ろへと迎え入れてくれて。さらさらした肌の温み、やさしく甘い匂いとそして、頼もしい総身の存在感が。たった独りで立ってたみたいな孤独から、どこにもやらぬと護るように、小さなこの身、くるみ込んでくれて。

 「シチ………、」

 ずっと昔にも持ってたもの、知ってた匂い。すっかりと凭れていいんだよって、安心できて暖かくて優しいもの。それって………。





   「…
おかあさん。」



 怖ず怖ずとした、それはそれは小さな小さな声での囁きへ。そこはさすがに戸惑ったものか、ほんの一瞬の間合いが挟まったものの、

  「…はい、何ですか?」

 応じてくれた優しいお声。小さな肩やら背中やら、きゅうと力込めてますますと抱きしめてくれた。腕や懐ろの温かさとそれから、
「ごめんなさいね。私が女の人だったら、声だって体だってもっと柔らかいのにね。」
 でも、作り声なんて…出来なくてと、切れ切れな応じになったのは、七郎次が先に涙ぐんでしまったからだと判ったから。大人の彼が先に泣いたのなら、だったら、もう良いのかなと。

  「う………。」

 彼を寡黙な子供にした一番の封印は、それだったのではなかろうかと思えたほどに。堰を切ったようにとは正にこのこと、久蔵の方こそそりゃあ大きな声を張り上げて、うわんうわんと泣き出してしまい。

  ――― おかあさん、おかあさん

 母親と混同している訳じゃあない。二度と口にするまいぞと、辛くたって負けるものかと封印していたその名前。それを持ち出したくらいに…そのっくらいに大好きと。言葉足らずで不器用な、そんな彼ならではの言いようだと、七郎次には痛いほど判っており。

 「…久蔵殿。」

 こんなにも愛しい、こんなにも激しい求愛なんて、生まれてからこっち受けたことがありませんと。これに限ってはあの勘兵衛さえ黙らせての譲れない、そんな重さを胸へと刻んだ七郎次であり。せめて想いの丈だけでも持ってってと言わんばかり、七郎次の身へしゃにむにすがりついて泣きじゃくった彼の声。あまりに切なく、あまりに哀しげだったので、こそりと居合わせたり聞いてしまった家人らは、いつまでも忘れられなかったのみならず、いかに良くできた坊ちゃまかを語り継ぐときにも、こたびの顛末、しみじみと思い出されたものだとか。ああウチの坊ちゃんは、こんな時でもなんて大人かと。大好きな人を困らせるのは嫌だと、あんなお小さかったのに我儘を通さず身を引けるなんてと、口にするたび誰もがついつい思い出しての貰い泣きしてしまう、そんな逸話となってしまったそうでございます。









        終章



 あれから、されど久蔵は同じことでは二度と泣かなかった。寂しくならなかった訳じゃあないし、約束通り遊びに来た七郎次が何日か過ごすと東京へ帰るのを見送るのは、やっぱりいつだって辛いことだったけれど、
『泣くこともあるって、シチが知っててくれるんならそれでもういいから。』
 やっぱり言葉が足りない坊や、それでも…彼なりに頑張って言い回しを考えたのだろ、そんな風に言ってくれたことがあり。男の子なんだから泣かないものと小さかった彼を支えていたのが、口にすまいとしていた“お母さん”の一言だったなら、今度は七郎次が当座の彼を支える存在となるらしく。

 『そうか、久蔵の母なら、そうそうこっちで独占する訳にもゆかぬわな。』
 『勘兵衛様…。////////

 細かい機微へまでちゃんと通じていなさるくせに、微笑ましいことよとそんな剽げた言いようをなさった御主に送り出され。少しでも長い連休のたびお顔を見にゆく七郎次は、そのうち木曽のお屋敷の方でも、久蔵のおっ母様と呼ばれるようになり。迎えにと後から来る勘兵衛へ、咬みつかんばかりなお顔をする久蔵なのもまた、いつまでも変わらなかったことだった。






 それからどれほどの歳月が経ったことだろか。

  「…おや、おはようございます。」

 ちょっぴり眠たげに目許を擦り、二階から下りて来た久蔵へ。朝ご飯の支度をしていた七郎次が声を掛ける。久蔵もまた東京へと出て来て1年が過ぎ、微妙な年の差がある奇妙な編成の男所帯ながら、もうすっかりと家族としての絆も固まっている三人住まい。こちらでもそれなり、色々な波風が立たない訳ではないけれど、どんな艱難が襲い来ようと却って結束を固めるばかりとあって、嫉妬の女神も歯が立たぬだろう幸せっぷり。
「どうしました? 何だか眠たそうですね。」
 今日は部活がある日でしたっけ? 日曜なのにと小首を傾げた七郎次へ、トレーニングウェア姿の次男坊、上着の方のポッケから、何やらごそごそ取り出した。白くて指の細い綺麗な手を、蓮の花でも咲かすよに、上を向けて開いて見せれば、

 「…あら。」

 そこにちょこんと乗っかっていたのは。大人の小指の先ほどという小ささの、小さな小さな細工物。深紅と純白のそれぞれ、小さな花びらが繊細巧みに重なり合った、華やか見事なバラの…ストラップの先につけるよな飾り、といったところだろうかしら。
「これって…?」
 まさかにこんな朝っぱらから手妻のご披露ということも…この彼だったら有り得るのかも? 眠そうなのはそれだけ練習したからなのかしらと、今朝は少々、久蔵殿へのアンテナの感度が悪いおっ母様へ、

 「島田にやる。」
 「………あ、そうでしたね。今日って。」

 六月の第3日曜日は、母の日ほどメジャーではないけれど、それでもそれと対になってる“父の日”だから。それで用意されたのですね。え? ご自分でホビー粘土で作ったんですか? 焼いてあるから丈夫? いや、勘兵衛様も綺麗だってことをまずは感嘆して下さると思いますってば。
「それにしても凄いですねぇ。」
 先日いただいたお花といい、久蔵殿って器用だなぁ、と。次男坊の手に乗ったままな、小さな小さな可愛らしい薔薇のお花を矯めつ眇めつ眺めておれば、

 「赤いほうは、シチの。/////////
 「あらvv」

 紅と白と、二つあるのはそんなため。母の日にってシチへと贈ったカーネーションは、でもでも二人ともが眺めて楽しんでくれているようだから。父の日の贈り物もやっぱり、そんな大好きな二人へ贈るものとした方が良いと思ったの。

 「久蔵殿。」

 ほらほらどうですかと、誰彼かまわず自慢したい。剣一筋と見せといて、でも本当はこんなにも、想いの深い、優しい子。


  ―― じゃあ、後でアタシにも作り方を教えて下さいませんか?
      久蔵殿にはアタシが、そうですね青いのを作ります。
      そしたら3人お揃いですものねvv

      ………。//////// (頷)


 これを作ってて眠いのですね、少しほど仮眠なさいますか? 勘兵衛様に渡してからにする? そうですね、今日は社のほうへご出勤なさるそうだから、それを見送ってからゆっくりなさると良い。あ、ほらほら、甘えん坊さんですね…と来たのは、そうは言ったがやっぱり眠いと、おっ母様の肩口へおでこを乗っけて来た次男坊だったからで。木曽のお屋敷から株分けしていただいた紫陽花の茂みには、淡い紫の瓊花がたわわ。東京でも根付いて元気ですよと、木曽へも連なる空へ向け、ゆらりゆらゆら、手を振っているかのようでした。






  〜Fine〜  08.6.13.〜6.23.


  *勘兵衛様とシチさんの出会い…というか、ご縁の始まりのほうは、
   以前にちょこっと触れたので、(『
咎罪者(とがびと)の恋唄』)
   今度はシチさんと久蔵さんの始まり…と言いますか、
   年下の久蔵をどうして“殿”付けで読んでるシチさんなのかを、
   なぞっておきたくなりまして。
   前編がダイジェスト風の端折りようだったのも、
   こっちをこそ書くのが本旨だったせいです、念のため。

   そもそもは、単に彼らの年齢差というものを考えていて、
   それでと書き始めた馴れ初め話なんですがね。
(苦笑)
   ちなみにこっちの彼らの年齢設定は、
   ウチの原作Ver.の彼らのそれともおおきに違ってますのでご注意を。
   原作Ver.だと、勘兵衛様が46歳、シチさんは34歳、キュウが26,7歳で、
   こちらでは、勘兵衛様が40歳、シチさんは28歳、キュウが15歳ってことで。
   (今慌てて考証してみたものなので、おいおい変わるかもですが。)

  *痛いお話や展開はあんまり好きじゃあないのですが、
   先付けとしてごちゃごちゃと出してあった背景設定を、
   一度くらいは整理しておかなきゃなあとも思ってましたので、
   この際だと一気に書かせていただきました。
   今のあの一家のほのぼの生活の始まり…ということで、
   これからはあまり触れないように致しますので、
   今回だけどうかご容赦を。

  *それにつけましても…
   シチさんのみならず、幼少のころの久蔵さんまで、
   とんだ別人28号にしちゃいましたね。
   あんなことで泣く人じゃないとお怒りの方 相すみません。
   ウチだけの困ったちゃんです、さあさ忘れた忘れた。
(おいおい)


めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv

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